Case.19
大学進学直前まで芸大を目指していましたが挫折。その時に出会った地質科学という未知なるサイエンスの世界へ進学しました。大学院修了後も地球科学の専門的な仕事を約10年続けました。30代半ば、積み重ねた学術的知識でしか語れなくなっている自分が「つまらない人間」と気づいたのが転機となり、科学・芸術・哲学の総合的な視点で情報をデザインすることに興味を持ちました。以後、独学でサイエンスデザインを開拓してきました。
私のサイエンスデザイン研究は、先例も正解もゴールも無い純粋な探求活動です。産業革命以降、私たちを取り巻く情報は爆発的に膨張し続け、人間の探求活動は細分・先端化し、気づかないうちに思考は意味や目的に支配されてきました(情報の構築)。私はその逆方向のベクトルに魅力を感じています。つまり、情報の構築物を解体し、本質と余白(思索する余地)を組み替える(デザイン)作業です(情報の解体)。
高知大学の短期研究員として2018年から「科学と芸術の対話」というプロジェクトを始めました。これは、科学の研究施設に現代アートの作家を呼んで研究者と対話の場を設けたり、作家が一定期間滞在して研究者と対話しながら芸術作品を制作する「アーティスト・イン・レジデンス」を実施したりしてきました。これらから見えてきたものは、地球科学と芸術は探求手法や思考方法が似ていること、そして両者は最終的な表現方法(情報のアウトプット)だけが異なっているということです。
今後は、情報デザイン(アウトプット、表現方法)の可能性を「余白」「遍在」「知覚」という観点(アフォーダンス)から深く探っていきたいです。
私は「余白=気づき=学び」の装置を作って(デザイン)います。子どもの視点や行動の多くには大人が求める「意味」はありません。それが「余白」です。例えば、「すぐに解らない情報」「間違える行為」には様々な気づきが潜んでいて、その気づきが多いほど生きる意味が濃くなります。本当に大事な「意味(多義的)」は後から解るとも言えます。さあ、余白をみつけて自身で考える行為をしてみましょう。
人の細胞が日々更新されるように、日本の風土が諸行無常であるように、私たちの思考や行動も環境と作用し合いながら変化し続けます。しかし、人間の探求活動の本質は過去も今も未来も不変「生きる」です。本質は変わらない、つまり獲得した知識や経験により「私」がまとうモノの厚みが変化し、見え方が変化しているよう感じるだけ。生きた研究とは、「私」がまとうモノの厚みを変化させることかもしれません。
余白の時間を持つことです。現代人は、日々押し寄せる情報や意味に追われ、「生きる」意味が薄くなりがちです。そういったものを一旦遮断して、非効率なことや無意味な行動をしてみる。そうすることで、人として「生きる」意味が濃くなると実感できます。私の場合、朝の抹茶と対話する時間などがそれです。
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