書評
職場におけるケアの可能性
高知大学女性研究者研究活動支援事業キックオフシンポジウムで、講演していただいた谷俊子先生(東海大学教育研究所助教)が、『ワーク・ライフ・バランスとケアの倫理――イクボスの研究』(静岡新聞社、2015年)を出版されました。ケアの倫理は、医療分野で患者等に対する倫理規範としての研究は進んできましたが、企業で働く従業員への規範として応用する研究はまだなされていませんでした。こうした中で、企業における育児休業制度の取得や短時間勤務制度などの従業員処遇について、ケアの倫理という方法論を用いた本書は画期的です。
●企業におけるポジティブ・アクション
企業・職場におけるポジティブ・アクションについて、全体数の少ない女性が働きにくさを感じたり、管理職や役員への可能性が低い状況がある中で、女性の採用の拡大は必須だと著者は指摘します。そして、採用の拡大のためには従業員・企業側双方が、入社から退職までの全てのキャリアシーンにおいて、長期的にポジティブ・アクションを意識した働き方を推進することが必要だと述べます。日本においては賃金・昇進・教育訓練等の処遇の他にも、性別による職務分業などの格差があるが、まだ日本の女性には家庭責任が多い状況があり、逆差別に当たるほどの女性の登用は進んでいないというのが著者の立場です。こうした中で、従業員への子育て支援や仕事との両立を円滑に行う制度を管理する、管理職の役割が重要となります。
●職場にケアの倫理を導入できるか?
企業における従業員処遇に企業が目指すべき目標としてケアの倫理を掲げることが、そもそも成果の重視や標準化を基本とする企業文化においてなじみにくいのではないか、という点が本書では検討されます。人を助けよう、ケアしようとする人は喜んでケアしようとしているのだから、「ケアすべし」という規範として従業員に命令するのでは、ケアの倫理がもつ特性と矛盾します。すると、管理職が「目の前にいる自分の部下をケアしたい」という自発的な感情をもつときに、「ケアの倫理を実践している」ことになると著者は述べます。
●ケアの倫理と「信頼」
ノディングズによれば、ケアする人はケアされる相手と共に感じ、相手を受容します。本書のインタビュー調査では、上司が「自分の子育て経験を重ね、支援してあげたい」とするさいに、ケアの倫理が成立していることが紹介されます。部下をケアした上司は、お金や地位だけでなく、「心の報酬」も得ている、というのが著者の特徴的な立場です。ケアは命令されて行うのでなく、共感や受容があるところに成立するところにケアの倫理の難しさがあります。メイヤロフのケアの倫理では、「信頼」があり、「他者の自由を認め」、「その人の権利において成長していくことが許されてしかるべきである」ことを著者は強調します。子育て支援をしすぎるのではなく、自由にやらせるところは自由にやらせるという上司と部下の「信頼」のうちに、企業におけるケアの倫理の可能性の成立を著者は見出しています。
●ケアの倫理と評価の課題
ケアされる側は、まわりに配慮(ケア)し、ケアする上司の側が部下の評価・育成に対して気遣いをすることのうちに、ケアの相互性が見出されると著者は指摘します。「文脈や人間関係を重んじる」、「世話したり、面倒をみる」ケアの倫理を、企業における正義の倫理を支える概念として著者は位置づけます。人間関係を重んじるケアについては、日本の企業では評価が困難であるために、ケアする者の負担やケアされる側の正当な評価について課題が見出されます。ケアを評価してしまうと、評価のためにケアをするという事態が生じて、自発的にケアを行うというケアの概念と齟齬が生じるという課題もあります。ケアは「ケアすべし」という規範ではないので、現状では自発的に支援するという従業員の倫理観に任されています。
管理職の女性が少なかったり、子育てと仕事の両立の困難な状況の中で女性が自分から企業における出世を望まない状況もあります。企業の現状を見て「仕方ない」と女性が昇進をあきらめている場合も多くあります。著者が指摘するように、経営倫理学の視点から、従業員が倫理的配慮(ケア)のある人であることを生の目的とすることは、企業の社会的貢献として捉えることができます。伝統的な功利主義や義務論の倫理規範に則ることのできない部分を切り捨てるのではなく、個々の事情に即した配慮をすることのできるシステム構築の可能性について道を拓くことができるのではないでしょうか。
小島 優子(安全・安心機構 准教授)